東京都港区三田は寺町としても有名です。三田三丁目、四丁目界隈に30を超える寺が点在しています。大きな仏閣はありませんが、古くからの檀家に支えられてきたのだろうと思わせる、小ぢんまりとしたお寺を見ることができます。
白金高輪の駅を出て桜田通りを東に進むと右手に浄土宗の寺、長松寺があります。寺の山門は隣接する駐車場脇の坂を少し登ったところにありますが、坂の下には「史跡 荻生徂徠墓」という石碑が建っています。長松寺は国の史跡に指定されている荻生徂徠の墓がある寺なんですね。荻生徂徠は江戸時代中期の儒学者で、歴史の教科書でも習う人物。五代将軍徳川綱吉の側近だった柳沢吉保に重用され、八代将軍吉宗からも諮問を受けるほどでした。荻生徂徠が登場する前に最も勢いのあった儒学は朱子学でしたが、道徳を強く説く非政治的ともいえる朱子学に疑問をもった徂徠は、政治と宗教道徳を分離する徂徠学といわれる独自の儒学思想を唱え、江戸幕府の政治的な助言者として活躍した人物です。学者であり時の政権のオブザーバーというと、小泉内閣の竹中平蔵を連想します。もっとも徂徠は幕閣になったわけではないですが。
荻生徂徠の墓は、長松寺墓所の一角に、他の荻生一族や徂徠学儒者の墓とともにたたずんでいます。国指定の史跡だからでしょうか、儒教思想に興味があるからなのでしょうか、筆者が訪れたときも、複数組の参拝者が徂徠の墓にお参りをしていました。徂徠の墓碑銘には「徂徠物先生の墓」とあります。これは荻生家のルーツが物部氏にあり、徂徠自身が「物徂徠(ぶっそらい)」という号を用いていたから、だそうです。
長松寺を後にするとすぐ右手に「幽霊坂」という坂があります。江戸時代から「ゆうれいざか」と呼ばれていたそうですが、その正確な由来は分かりません。江戸時代にこの坂の両脇には寺院とその墓所が建ち並び、昼でも薄暗く幽霊が出そうな場所だったから、という一説があるとおり、現在でも坂の両脇には寺がひしめくように並んでいます。
そんな幽霊坂を暫く登った後に、右手にある小さな小径を進むと、正覚院という臨済宗の寺があります。あまり寺院然としていない寺なので中に入るのはちょっと勇気がいります。でも敷地に入ってすぐのところに小さな墓所があり、一番手前には福島正則の墓があります。賤ヶ岳七本槍の一人で、石田三成に反発して関ヶ原では加藤清正とともに徳川家康についた武将。秀吉の親族だったため、重用され豊臣性まで与えられていたのに、秀頼を守ることなく家康に降った残念な武将のイメージしかありません。福島家は結局幕府に潰されてしまいますが、正則の子である福島正利が開いたのがこの正覚院です。墓所には正則と正利の墓が並んで建っています。ただし、この正則の墓は供養塔で、実際の墓は長野県小布施町にある岩松院という寺にあります。
三田の寺はどこも感じが良さそうで、お参りしてみたくなるのですが、いかんせん大きな寺ではないので人の出入りも少なく、檀家でもないのに敷地内に入るのを躊躇わせる雰囲気があるのが少しだけ残念な気もします。最も散策しながら外から眺めるだけでも、寺町の空気感を味わうことはできます。