12月15日の日経新聞に「問われる帝国の残滓 沖縄の風葬骨、京大に返還請求」という記事がありました。記事の概要は、戦前に京都大学が沖縄本島北部の今帰仁村から研究目的で持ち出した風葬された後の人骨の返還を求めた訴訟の弁論が始まった、というものです。風葬という日本人にはあまり馴染みのない葬送が沖縄でも行われていたことを知り、調べてみることにしました。
※メインの写真は沖縄の風葬の写真がなかったために、インドネシアの風葬である洞窟葬です。
古来より世界各地で行われていた風葬
風葬とは、遺体を土の中に葬るのではなく、風に晒して風化を待つという葬送です。古くは世界でも、東南アジアやオーストラリアなどで行われていました。チベットではまだ残る鳥葬も風葬の一種であるという見方があるそうです。インドネシアのスラウェシ島のトラシャ族にはまだ風葬の慣習が残っているそうです。日本でも中世までは遺体を入れた棺を木の枝にぶらさげて風化を待つ樹上葬という葬送が行われていたという伝承が残っています。さまざまな土着の信仰と結びついて、死者を送るための方法の一つとして根付いていたのでしょう。イスラム教、キリスト教、仏教の3大宗教が拡がり、それぞれの死生観に置き換えられていったことと、衛生的ではないことも理解するようになったことから、徐々になくなってきたのだろうと想像しています。
沖縄では近世まで残っていた
日本本土では中世以降は失われていた風葬が、明治時代までの沖縄では残っていたということです。その理由の1つとしては、沖縄は本当も含めて火葬施設が少なかったこと、そして土に埋める墓所とする土地も少なかったことがあげられます。明治時代に風葬が禁止されたことで沖縄にも火葬が拡がりますが、本島以外の離島は火葬施設の整備はかなり遅い時期となり、本島より土地もないため、かなり長いこと風葬の慣習が残っていたとされています。神の島と呼ばれる久高島では1960年代まで、また宮古島では1970年代まで行われていたことが確認されています。
久高島などの風葬の方法
久高島や明治までの沖縄で行われていた風葬の方法は次のようなものです。遺体を海に面した崖や洞窟に安置して自然の腐敗を待ちます。これらの崖や洞窟は聖域であると同時に穢の場所として特定されていました。つまり、これらが墓所の位置を占めていたことになりますね。そして死後、3年、5年、7年などのタイミングに完全に風化して白骨化した遺骨を洗う「洗骨」という儀式を経て、骨壷(沖縄では「厨子甕(ずしがめ)といいます)に納めるというものです。宮古島は少し独特の方法で、石囲いの巨大墓の中に遺体を安置するというものでした。
ニライカナイの信仰が背景に
沖縄に風葬が根付いた理由の1つに、沖縄の独特の信仰ともいえる他界概念であるニライカナイがあると言われています。ニライカナイは遥か遠い海の彼方、または地の彼方にあるとされる異界で、ニライカナイの神が年初に降臨し豊穣をもたらすと信じられていました。また、人の魂もニライカナイから来て、死者の魂はニライカナイに還るとも信じられていたのです。つまりキリスト教的な天上界でも、仏教的な極楽浄土といった、現世とは完全に隔たれた異界ではなく、遥かに遠いけど繋がっている異界ということになりますね。そのため崖や洞窟が選ばれたのだろうと想像しています。
樹木葬をはじめ自然葬という言葉が最近は注目を浴びていますが、風葬は古来より行われていた自然葬の代表的なものだと思います。
ところで、現在もまだ、竹富町や与那国町など離島の一部では風葬の慣習が残っているという記事を目にしましたが、エビデンスが得られるものはありませんでした。竹富町の西表島には火葬設備が整い、葬送は既に火葬のようです。しかし、小さな離島はちょっと分かりません。もしかすると本当に残っているのかもしれません。