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【寺社参り・お墓参り】五百羅漢寺〈東京都目黒区〉~東急電鉄目黒線不動前駅~

記事公開日:2018.12.21/最終更新日:2023.04.19

東京都の重要文化財に指定されている305体もの羅漢像が安置されて、「目黒のらかんさん」として親しまれているのが、浄土宗「天恩山 五百羅漢寺」です。これも人気のある「目黒不動尊」の、すぐお隣にあるお勧め寺院です。

五百羅漢寺の縁起

初めに、五百羅漢寺の縁起を簡単にご説明します。江戸時代の1600年代後半(元禄時代の前後です)に、松雲元慶という仏師がいました。仏道修行や諸国行脚を重ねる中で、羅漢に対する畏敬の念を抱き、江戸で五百羅漢像を彫ることを決意します。

注) なお、「羅漢」とは仏道修行で最高位に達した人のことを言います。「五百羅漢」はお釈迦様が亡くなった後に、お釈迦様の教えを正しく広めるための方法を話し合う場に集った500人の仏弟子がモデルといわれています。お釈迦様の10人の高弟「十大弟子」の名前は後世に伝えられましたが、500人の羅漢は名もなき存在でした。しかし中国の明の時代に、1人ひとりの羅漢に、お釈迦様の教えからとった名前が付けられています。

羅漢像を彫るには資金が必要でした。松雲は江戸市中で五百羅漢の意味や意義を説きますが、賛同者はなかなか現れません。しかし、やがて同じ門下の高僧が支援をしてくれ、辻説法が庶民にも受け入れられて、徐々に資金が集まりだし、松雲は羅漢像の彫像に没頭できるようになります。1693(元禄6)年には50体の羅漢像が完成します。そしてこの頃に、五代将軍綱吉の生母である桂昌院が松雲を認めて支援を約束してくれたのです。公儀公認の事業となったことで、お布施はさらに集まり、1695(元禄8)年には、将軍綱吉から寺院建立のための土地が下賜されました。本所の地に「天恩山 五百羅漢寺」として開山したのです。

江戸時代は市民の人気を集めていた同寺ですが、明治維新後には衰退していきます。1908(明治41)年に本所から目黒の地に移転しますが、関東大震災で大破し昭和の初めには住職もいない荒れ寺になっていました。その荒廃した寺に立ち寄ったのが、明治の元勲である桂太郎の側室で、桂の没後に出家して尼僧となった「安藤妙照」でした。彼女は余生を五百羅漢寺の復興に捧げ、彼女の亡き後も意思を継いだ多くの尼僧さんたちが中心になって、五百羅漢寺と羅漢像を守り続けて、現在に至っています。

羅漢さんたちとご対面

最初に注意事項をお伝えしておきます。メインの写真にも注記していますが、五百羅漢寺では文化財保護の観点から境内の写真撮影が認められていません。スマホ・携帯カメラも無論NGです。

五百羅漢寺の入り口

寺務所ビルの脇にある階段を登ると、受付があり拝観料300円支払い拝観手続きをします。まず、右手にある羅漢堂に向かいます。ここには本堂に納めきれなかった羅漢像146体が安置されています。コの字型通路の壁際に3列に羅漢像が置かれています。手を触れることは厳禁ですが、触れることができる距離で観ることができます。一体一体の名前(教え)と異なる表情が、はっきりと分かります。羅漢堂の出口には、同じく松雲作の夢を食べる獏の像「獏王像」が安置されています。

座って表情を鑑賞できる本堂

羅漢堂を出た後は、同寺縁の石碑が並ぶ「碑のこみち」を経て、本堂に向かいます。本堂には、下足を脱いで入ることができます。正面に本尊である釈迦牟尼仏と十大弟子、十六羅漢が安置され、左右に羅漢さんたち(羅漢堂以外の)が安置される本堂内部は、椅子が置かれ、お釈迦様の教えが流れています。座って、1人ひとりの表情を眺めていると、どんなに忙しいときでも、きっと心が落ち着いていくことでしょう。筆者が入ったのは、16時を回っていました。拝観終了(17時)が迫っていたせいか、本堂には筆者ひとりだけ。短いけれど実に贅沢な時間を過ごすことができました。

 

お寺なんですが、美術館の趣があります。